昭和に生まれて

思いのままに

たんぽぽ

 昭和50年頃の事である。

 

 その日浩一は、出張で長野県松本での仕事を終え、飯田に向かっていた。夕方まだ明るい時刻に降りた飯田の駅は、その当時木造の古ぼけた小さな駅だった。 駅前に降りるといかにもローカルな町と見える、数台のタクシーが客待ちをして、これといったビルもなく、平和な静かな町であった。この地区では大きい街だと聞いていたが、予想外な景色に驚かされた。

 

 駅を出て、少し歩くと、電話で予約しておいた旅館の看板が目に入った。昔ながらの旅籠で、あまり泊まる客もいないような古ぼけた木造の宿であった。 部屋に行き、一呼吸おいてから、夕飯を食べに外に出た。

 

 少し下り気味の坂道をゆっくりと歩いていくと、入り口のドアがいかにも真新しく、開店祝いの花輪に「スナック たんぽぽ」の文字が見えた。 どう見ても、今日が開店の店である、この近辺に、他に酒を飲めるような店は見当たらない。店の名前が「たんぽぽ」悪質な店とも思えなかった。外はまだ明るいが、食事の前にビールでも飲んで行くかとドアを開けた。

 

 早すぎたのであろうか、店には客の一人も、店の人の姿もなかった。 入って左側にカウンターがあり、8人ほどが座れる椅子が並んでいる。間口が狭く奥に長い、細長い造りである。奥には調理場でもあるのか、カウンターの位置からは、中が見えない。外の光が入り店の中は薄暗いが落ち着いて見えた。新規開店である、良く整理され、掃除もされているが、飾りもなく、殺風景にも見える。

 

 「あのー、早すぎましたかねー」と奥に向かって声をかけると、「大丈夫です。好きなところに座っていてください。」と女性の声が聞こえた。

 

しばらく座っていた。だが、誰も出てこない。珍しい現象である。この手のお店に入って、客が来たのに、しかも客が声をかけたのに、返事だけして、誰も姿を見せない。おしぼりもない。注文も聞かない。不思議である。これが飯田のしきたりか? それでもしばし待った。

 

 普通開店祝いと言えば、親戚や友人、前の店でのお馴染みさんなどの人々が来てにぎやかなのだが、静かである。そういえば、花輪も店を工事した業者だけ1つである。店の中もこれと言ってお祝いの花籠などもない。暇に任せてあれこれ考えていた。それにしても静かである。

 

 とうとう手持ち無沙汰で、「ビールが欲しんだけど」とまた声をかけてみた。「はい」と声がした。

 それでも姿が見えない。ビールは来ない。お通しもない。どうすればいいのかな? 待つことにした。

 

 来た! 年の頃なら30歳前後、背は平均より大きく160cmぐらいはあるだろうか、小太りの女性である。お使いに町に来たと思われるような極普通の装いである。水商売をやってますと思われる典型的な装いからは程遠かった。

 

手には、栓を抜いたビール瓶とコップ。「はい」と言って置くと逃げるように奥に引っ込んでいった。 なぜ逃げる? そんなに私が怖いか? お通しはどうした? わからない? 出てきた女性以外に、人の気配はしない。不思議である、ビールを注ぎもしない。

 

ビールを自分で注ぎ、静かに口に運んで、ゆっくりと考えた。そう、慣れていない。きっとこのような商売の経験がないのだろうと思った。女性の顔に不安がありありと見えた。だがではなぜ、この商売を始めようと思ったのだろうか? 暇である。いらぬことを考えるぐらいしかすることが無い。

 

これは、面白いかもしれない。どういうことなのかゆっくりと解明していこう。

「あのー、メニューは?」声をかけてみた。「えっ!   はい」慌てた声である。奥で何をしているのかわからぬが、料理をしているような音もしない。メニューを持ってきた。そして、また慌てて奥に逃げ込んだ。

 

 直ぐに出来そうなものを注文することにした。「冷奴と枝豆!」と奥に向かって注文した。「はい」の返事はする。

 

 そうこうするうち一人客が入ってきた、小柄で年の頃なら60歳前後、頭は短髪で白いものが多く見える。地元のおっさんという雰囲気で、工事関係の仕事でもしているのか薄いグレーのジャンパー姿。少し離れたところに座った。

店を見回した後、「店の人は?」こちらに聞いてきた。「奥にいますよ。」 「お客だよー」と奥に向かって男が声をかけた。またもや、「はい」の返事だが出てこない。注文品を作っているのだろうか?

しばらくして、冷奴と枝豆をもって女性が現れた。男の客にいらっしゃいとも言わず、料理を置く。 「ビール頂戴」と男が声をかけた。 「はい」と言って奥に。 今度はすぐにビールを持って現れた。置いて、奥に戻ろうとすると、男が「お酌しなくっちゃ!!」と。

「はい」と言いお酌をする。「この仕事はじめてかな。」流石おっさん、男は女性に話しかけた。

「そうなんです。何にもわからずすいません。」

「そのうち客が色々教えてくれるよ。ところで前は何の仕事をしていたの?」

「事務員でした。」

「ずいぶん固い仕事だったね~。それですぐこの仕事をする気になったの?」

「ええ」

 女性は答えずらそうであった。

「すいません」

声を残してまた奥へと逃げた

 

男と女性の会話を横で聞きながら、妙な想像をめぐらしていた。

 

事務員で働いていてこの店を開けるくらいの金を残せたのかな?

なぜやめてすぐ水商売をやろうと思ったのか?

客と話もできない人がなぜ水商売をやろうと思ったのか?やるにしても、普通ならどこか他の店でアルバイトでもしてこの商売をわかってから開店すると思うが、差し迫ったことでもあったのか?

元々飯田の人なのか、それとも他の地の人なのか?

開店初日に全く関係者が居ないのはなぜ?

 

 妄想の結論を出した。

 

飯田近郊の小さな町の中小企業に事務員として勤めていた女性が、ある時社長と不倫関係になってしまった。何年か続いたその関係が社内に知れることとなった。噂は一気に社内、地域に広まり、会社に留まることも、地域に留まることも難しくなった。他の地域に移るのも、その地域で女性一人暮らしをし、職を得ることも難しい時代だ。まして新規の事務職は、若い女性が普通だ。そんなこんなで、不倫相手の社長が店でもやってみたらどうかと案を出した。店の開店資金は出す、商売がうまくいかなくても、しばらくは面倒を見る。そんな話があり行く当てもない身となった女性は渋々承諾したのであろう。店は既存の店を短期間で改造したのだろう。心の準備も十分に出来ぬまま、追われるように開店したのでは。

 

「出張かい?」男が声をかけてきた。

「ええ」

「どちらから?」

「仙台です」

「そりゃ遠くからご苦労さんだね」

「昨日は松本泊まりだから楽なもんですが」

「飯田は初めてかい?」

「そうです。ああそう言えば、飯田は南信州で一番大きな街と聞いていたんですが、駅前はさびれた感じですね」

「賑やかなとこは、ここから1キロくらい東に行ったとこにあるんだ。アーケイドもあるし、飲み屋もたくさんあるよ。」

「そうですか」

 

 しばらく男から飯田の街の様子を聞いていた。その間も女性は姿を表さない。物音ひとつ無く何をしているのやら。

 

 ビールも飲み終わり、つまみも食べ終わり、男の話も終わったので、奥に「お勘定を」と声をかけた。「はい」の返事がしてほどなく紙を手にして女性が出てきた。金を払い店を出た。外はまだ明るかった。

 

 

 それから1年ほどして、また飯田に来た。ほぼ同じ日に、同じ時刻の列車で着いた。駅前は全く1年前と変わりはなかった。宿も同じ。前と同じように荷物を置いて外に出た。まだ明るいなか、駅前の緩い坂を少し下ると、その店はあった。さすがに花輪は無く、明かりのついた看板があった。潰れていなかった。よく持ちこたえたものだ。どう変わったか確認に入ってみることにした。

 戸を開けると店の中は暗く、煙草の煙が充満していた。多くの人の話し声が混ざり合い何を話しているのか全く判別できない。一瞬たじろいだ。予想外であった。

 一番手前の椅子が一つだけ開いていた。そこに腰を掛けると「いらっしゃい」のママの声がした。挨拶ができると馬鹿なことに感心していた。当たり前である、一年ももっているのだから。

ママの姿をしげしげと見た。顔は同じ人の顔であった。前よりも幾分太ったか。白地に太い線を幾本も大胆に配置し、かなり派手な着物を着ている。もうこの商売10年以上やっていますとでも言いそうな貫禄十分な姿である。手元で料理でもしているのか、ゆったりと、それでいて的確に処理をしているようだ。コップが開けばお酌をし、誰かが煙草を咥えるとライターで火をつけ、その動作も慌てた風もなく、ただ言葉もなくごく当たり前にこなしていた。馴染みの客なのだろうか、ママに話しかけていた。短い会話であるが親しげに話をしている。

わずか一年である。ここまで変われるものかと思った。女性一般の適応能力なのか、それともこのママの特別な能力なのか。

 

「何にします?」ボーッとしていたら、ママの声。「ビールを」我に返って注文した。ママは足元に冷蔵庫でもあるのか、かがみこみビールを取り出し、コップを置いた。ビールはお酌の態勢で待っていたので、コップを取って前に出した。そうこの店で初めてお酌をしてもらった。その後漬物のお通しが出た。水商売の通常コースが行われた。客に色々教わったのは確かなようだ。

ママはこちらの顔を覚えてはいないようだ。それはそうだ、最初に来た客だが、ろくに顔さえ見ていなっかただろうし、奥にばかりいた。

 メニューを見て、冷奴と枝豆を頼んだ。頼んだ時、ママがチラッとこちらの顔を見たが何事も無くそのまま手元に目をやった。ママが冷奴と枝豆を出した時、「繁盛してますね。」と話しかけたら、通り一遍の「おかげさまで」と答えてまた作業に入った。

 暇であるので、飲みながら周りを見回していた。店の奥の見えないところから客の話し声がしている。部屋があるのだろう、かってのママの隠れ場所にも客がいる。灯りの下のママの後ろの収納棚も依然と同じように綺麗に整理されている。そう、繁盛していて多くの客が使っているにもかかわらず、カウンターも綺麗に掃除されていた。変わらないところもあるのだと思った。

 ビールを飲み終わり、つまみも食べ終わり、勘定をして外に出た。外はまだ一年前と同じように明るかった。