昭和に生まれて

思いのままに

高砂

昭和30年代初め浩一が小学校4年生の頃のことである。

 

その日浩一と姉の幸子は結婚したての叔母の家に呼ばれていた。叔母は姉と10歳しか離れていないため姉妹のように仲が良かった。

 

叔母の家に着くと、叔母と結婚したての叔父と一緒に2人を待っていた。その当時の2人住まいの東京のアパートにしては広めの部屋であった。叔父は大手の商社に勤め、育った家も代々続く名のある家だった。

 

叔母と姉が料理に取り掛かり、叔父が買い出しに出かけた後、浩一ひとりが暇であった。部屋の中を見回していたが遊べるようなものはなかった。

 

その時、たまたま箪笥の上に見慣れないものが見えた。おじいさんとおばあさんの人形である。きらびやかな着物姿でそれぞれが熊手と箒を手にしている。(この媼と翁の人形は、婚約した二人に親戚等から送られるもので、ともに白髪の生えるまでと健康で豊かな人生を願ってのものである。その名を「高砂」と言う) 

 

「顔が!!」浩一はおじいさんとおばあさんの顔の表情に引き付けられた。その感動は幼い浩一には言葉で説明できるものではなかった。後年その有様を思い出しては反芻するようになって、ようやく言葉で説明できるようになった。

 

「若い頃かなりの苦労をしたが、二人で手に手を取って、必死に頑張ってきた。人々にも助けられ、人の有難みを心底感じて、感謝の心を育んできた。そのおかげで、健康で、仕事にも成功し、良い子や孫にも恵まれた。子供に家業を引き継ぎ、隠居した今が最も幸せな時である。その表情には、すべてに満ち足りた喜びがあふれている。この人形の表情は、そのすべてを表していた。人間観察もその本質も見事に表現しきっているように思えた。」

 

この出会いは、不思議なほど浩一の心に残った。しかし、その後この人形は、叔母の家を訪れても見ることが無かった。何処へ行ったのか不明のままで、後年叔母に聞いても定かでなくなっていた。

 

後年自由に行動ができるようになってから、デパートに行ったときは人形売り場に、あるいは人形の専門店にわざわざ出向いて、同じようなおじいさんとおばあさんの人形(高砂人形)を探した。いくつもの人形を見たが、どの人形も格段に顔の表情のレベルが低く、人間洞察を全く感じさせない人形ばかりであった。平成の後期になって、ネットでも探したが、同じレベルの顔をした人形は見つからないのである。

 

あの人形作者が誰であったか、あるいは製作工房の名前でもわかっていればよかったが、幼い浩一にはそこまで気づきようも無かった。おそらく博多人形ではないかとしかわからなかった。